飛鳥時代にひっそりと名を刻む“儚き皇子”がいるのを、ご存じでしょうか?
彼の名は、有間皇子(ありまのみこ)。
父は天皇、身分は正真正銘の皇子。それなのに――たった19歳という若さで、処刑されてしまったのです。
しかもその最期には、涙なしには読めないような和歌を残していて……
もう、これは歴史じゃなくて完全に“推し活”案件なんです!

今回は、そんな有間皇子の人生を、わかりやすく、そしてちょっぴりオタク女子目線でご紹介します♥
まだ知られていない「美しき皇子の物語」に、一緒にときめいてみませんか?
「え、誰それ?」から「好き…」になるまで、一緒に沼に落ちていきましょう✨
有間皇子ってどんな人?ざっくりプロフィール
◆ 天皇の子として生まれた“貴公子”
有間皇子(ありまのみこ)は、飛鳥時代の天皇・孝徳天皇と、その妃・小足媛(おしたらひめ)との間に生まれた皇子です。
つまり、れっきとした“王子様”。それも、名門中の名門の出自──まさに血筋も格式も、完璧な貴公子✨

名前の「有間」は、有馬温泉に滞在中に生まれたことが由来だという説もあり、誕生の瞬間からすでにロマンが香っているんです。
◆ だけど、時代はそんなに甘くなかった…
とはいえ、その人生は決して“優雅なお坊ちゃまライフ”ではありませんでした。
父・孝徳天皇の時代、実際に権力を握っていたのは──あの中大兄皇子(後の天智天皇)。
孝徳天皇が理想を貫いたことで、次第に政治の中枢から孤立し、重臣たちも中大兄皇子のもとへ離れていきました。
そんな緊迫した空気の中、有間皇子の立場も徐々に追い詰められていきます。
彼自身には何の罪もないのに、父の影を背負い、時代の荒波に巻き込まれていったのです──。
どんな運命だったの?有間皇子の切なすぎるストーリー
◆ 命を守るための“演技”と白浜温泉
孝徳天皇の死後、天皇位についたのは中大兄皇子の母・斉明天皇。
このとき、次の皇位継承者として注目されたのが、有間皇子。
でもそれは、“狙われる立場”になったことを意味していました。
彼はその危機を察知して、なんと「病気のふり」をしてしまうんです……!
皇位に興味がないことを装って、自分の命を守ろうとしたんですね。
そして養生のために訪れたのが、紀伊の牟婁(むろ)の湯──いまの白浜温泉。
このとき有間皇子は本当に元気になって、都に戻ってから斉明天皇に「温泉最高でした!」と熱弁。
その結果、斉明天皇が実際に白浜へ行幸することに。
でも、この旅の間に、運命の歯車が動き出してしまうのです──。
◆ 謀反、裏切り、そして──儚き最期へ
斉明天皇の留守中、有間皇子は蘇我赤兄(そがのあかえ)という有力豪族にそそのかされ、謀反を決意……。

蘇我赤兄は、有間皇子に近づき、こう持ちかけたといいます。
「今の政治は間違っている。皇子さまこそ、民を救えるお方です」

でも、これは罠だったという説もあり、背後には中大兄皇子の影がちらついています。
蘇我赤兄はこの話を、すぐさま中大兄皇子(のちの天智天皇)に密告。
有間皇子は「謀反を企てた罪」で捕らえられ、護送されてしまいます。
謀反はすぐに発覚し、皇子は白浜にいた斉明天皇のもとに連行されることになりました。

有間皇子は白浜(牟婁の湯)で斉明天皇のもとに護送された後、再び都へ戻ることはありませんでした。彼はそのまま紀伊国で尋問を受け、藤白坂(現在の和歌山県海南市)で処刑されました。
◆ そして藤白坂へ──19歳、最期の旅路
彼が最後にたどり着いたのが「藤白坂(ふじしろざか)」という場所。
そして、そこで絞首刑に処されました。
──彼はまだ19歳。
夢も未来も、何ひとつ成し遂げぬまま、命を奪われてしまったのです。
でも、有間皇子はその最後の旅の中で、2首の和歌を詠み残しています。
どちらも胸に迫るほどの切なさで、まるで心が透けて見えるような言葉たち──
このあと、その和歌をご紹介しますが、心の準備をしておいてくださいね。
きっとあなたも、彼の想いに、胸をつかまれるはずです…。
和歌が沁みすぎて、黙ってられない
有間皇子が最期に残したのは、2首の和歌。
──死刑を前にして、彼は何を思い、何を言葉に託したのか。
たった19歳で人生を終えなければならなかった皇子が、
たった数十文字で残した想いが、1300年の時を越えて私たちの胸に届いてしまう。
これ、読み流すなんて無理です。
もう、共鳴せずにはいられません…静かに、でも確かに。
◆ 一首目:「また会える」って信じたい、その気持ちだけ
磐代の 浜松が枝を 引き結び
真幸くあらば また還り見む
≪現代語訳≫
磐代の浜の松の枝を、旅の無事を願って結んでおこう。
無事に帰ってこれたなら、またここに来て見てみたい。
……やだもう、尊すぎて無理……!
この歌、旅の安全祈願なんだけど、背景が「護送されて死刑にされる途中」ですよ?
そんな状況で「また還って来たい」って……希望を手放してない皇子、強すぎる。
でも同時に、「戻れないかもしれない」ってわかってる静かな諦めもある。
そのバランスが絶妙にリアルで、感情の揺れが生々しくて、読んでてしんどい……(←褒めてる)
◆ 二首目:ご飯の話なのに、泣けるって何?
家にあれば 笥に盛る飯を 草枕
旅にしあれば 椎の葉に盛る
≪現代語訳≫
家にいればお椀によそってもらえたご飯も、
旅の今は、椎の葉にのせて食べることになるんだなぁ。
って、ちょっと待って。
ご飯の話よ?お椀と椎の葉の違いよ?
なのにこんなに泣けるの何なの……。
この「日常の記憶」が、どれだけ大事で、どれだけ遠くなってしまったかっていう、
あまりにも静かで痛い気づきが詰まってる。
ラストが近いってわかってる人が、
こんなにささやかな、でも切実な歌を詠むのって、ずるい……推しちゃう……。
◆ 静かな言葉が、一番刺さるんだよね
皇子の和歌は、どれも派手な言葉じゃない。
だけど、読み終わったあとに、なぜか黙ってしまうくらい、刺さる。
これはもう、飛鳥時代の文学じゃなくて、
「その人の魂の抜け殻が落としていった言葉」って感じ。
しんどい。でも、好き。
わたし、飛鳥時代に感情置いてきました──。
どこで眠ってるの?有間皇子ゆかりの地
◆ 処刑の地──藤白坂(ふじしろざか)
有間皇子が最期を迎えたのは、現在の和歌山県海南市にある「藤白坂」。
ここが、あの和歌に込められた想いが詠まれたとされる場所です。
名前の響きからしてもう、切ないじゃないですか……藤白坂。
古代の道の途中、山と海に囲まれた静かな地。
そんな場所で、19歳の皇子は処刑されました。
「また還り見む」と願いを込めた地を、彼は二度と見ることはなかった──
その事実を前に立つと、自然と足がすくみそうになります。
◆ 歌碑と神社──いまも残る、皇子の痕跡
藤白坂のそばには、有間皇子の歌が刻まれた歌碑があります。
石に彫られたあの歌を、風に吹かれながら読むと……
なんというか、もう、言葉じゃなく“温度”で感じるんです。
千年以上の時を越えて、皇子の声がすぐそばにあるような錯覚。
そしてその近くには、藤白神社という神社もあります。
ここには「有間皇子神社」という小さな祠が祀られていて、
地元の方々が今でも静かにお参りを続けているそうです。
そう、彼はちゃんと記憶されているんです。
教科書には載っていなくても、誰かの祈りの中で。
◆ 行ってみたくなる“静かな聖地”
有間皇子ゆかりの地は、派手な観光地じゃないけれど、
だからこそ、そっと心を置きに行けるような場所です。

有間皇子の墓(和歌山県海南市)663highland, CC BY-SA 3.0, ウィキメディア・コモンズ経由で
賑やかな歴史じゃなくて、静かな歴史に触れたい。
そんなときに訪れてほしい、“想いに沈む”旅先。
実際に現地に立つと、あの和歌の情景が風に重なってくる気がします。
「還り見む」と願った皇子の目線を、今こそ感じてみたくなる──
そんな気持ちになるんです。
まとめ:有間皇子を語りたくなる理由
有間皇子という名前を、今日初めて知った人もいるかもしれません。
教科書にはほとんど登場せず、派手な伝説もない。
けれど、彼の人生には、不思議なほどに惹かれてしまう何かがあるんです。
高貴な血筋、誠実な心、若くして迎えた非業の最期。
そしてなにより、最後に残した和歌のことばが、あまりにも静かで、あまりにも優しい。
そこには、「こうしてほしい」とか「自分を覚えていて」といった願いすらない。
ただ、ひとりの青年がその瞬間に感じた想いが、そっと置かれているだけ。
でもその静かさが、逆に胸に刺さる。
彼の人生を知ることは、飛鳥時代の政争を学ぶだけじゃなく、
「誰かが、何も言わずに残した想いに気づく」という、とても人間的な体験なんだと思います。
だから私は、有間皇子のことを、今も誰かに語りたくなるのです。
静かに、でもずっと、心の片隅で推し続けたくなる存在として──。
……というわけで、やっぱり「有間皇子は美形だった説」を語らせてください
ここまでちょっと真面目に語ってきましたけど、最後にどうしても言いたい。
有間皇子、美形だった説、ぜんっぜんあると思うんです……!
ここまで読んでくれたあなたなら──きっとわかってくれると思うんです。
「この皇子、絶対に美形だったに違いない……!」って思わずにはいられないんです。
だって、考えてみてくださいよ。
天皇の子として育ち、気品と教養はバッチリ。
政治に巻き込まれ、裏切られ、処刑されるという非業の最期。
そして、死の直前にあの和歌。

…心の機微が繊細で、死を前にしてなお静かに想いを綴るあの感じ。
情緒、儚さ、気高さ、全部入りじゃないですか??
このスペック、今の創作界だったら間違いなく“中性的で儚げなビジュアルの貴公子”になります。
たぶん黒髪ロングで、睫毛は長くて、儚い笑みを浮かべながら松の枝を結んでる(想像済)。
史実ではビジュアルの記録なんてない。
でも、だからこそ想像できるし、自分だけの“理想の有間皇子”を心に描けるって、ちょっと楽しくないですか?
歴史を学ぶって、年号を覚えることだけじゃなくて、
こうして“ひとりの人間としてその人物を感じること”でもあると思うんです。

だから私は、今日もそっと思うのです。
──有間皇子は、たぶん、美しかった。
それが事実でも妄想でも、今この瞬間のときめきが嘘じゃないなら、それでいいじゃない……♥
◆ そしてもうひとつ、彼の儚さを際立たせる話
実は、有間皇子の“静かな美しさ”がもっと際立つポイントがあるんです。
それは、同じ時代を生きた他の皇子たちとの違い──
たとえば、大海人皇子(のちの天武天皇)のように、戦乱を生き抜いて即位する“勝者の物語”を歩んだ皇子もいます。
でも有間皇子は、そのまったく逆。
権力にも抗わず、名誉も残さず、ただ静かに、でも気高く、消えていった存在。
だからこそ、彼には“語られざる美しさ”があるのかもしれません。
戦うことよりも、想いを残して散っていく姿にこそ、惹かれるものがあるんです。